ドイツ・ケルン大聖堂の歴史【一時は世界遺産除名の危機!】

世界遺産
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こんにちは。やっす(@yassu_blog)です。

ドイツにおいて最も人気な観光スポットであり、世界最大のゴシック洋式建築として世界遺産にも登録されているケルン大聖堂ですが、実は632年もの歳月をかけて建てられました。また、今でもその美しさからたくさんの人々が訪れていますが、一時期世界遺産から外される可能性のある「危機遺産リスト」にも入っていたことがあるのです。
そんなケルン大聖堂の歴史を見ていきましょう。

こちらの記事の内容は動画でも解説しているので、合わせてご覧ください。

危機遺産リストに入ってたって本当?ドイツ・ケルン大聖堂の歴史

ケルン大聖堂はどこにある?

ケルン大聖堂はドイツでも古い歴史を誇る西部の街・ケルンの中心に存在します。
ケルンはライン川沿いに存在する街で、古くから発展した街です。
ケルンまでは日本からの直行便もあるフランクフルトへ行き、そこから特急列車で1時間15分程度で行くことができます。

ケルン大聖堂の概略

ゴシック様式の世界最大の建築物で高さは157mもあり、4,50階建てのビルと同等の高さがあります。
ケルン中央駅のすぐそばに位置していますが、建物が大きすぎて、写真を取る際には駅から離れないと全景を移せないほどの大きさです。
またトリーア大聖堂とマインツ大聖堂と合わせてドイツ三大大聖堂とされています。

ケルン大聖堂の歴史

ケルン大聖堂は現存するものが三代目です。

4世紀ごろ

ケルン大聖堂が建つ土地には4世紀ごろから聖堂が存在したとされています。
その後2代目に建て替えが行われます。

818年

2代目のケルン大聖堂ですが、12世紀頃から、イエス・キリストの誕生を祝うためにベツレヘムに訪れたと言われる東方三博士(とうほうさんはかせ)の遺物が納められており、多くの巡礼者が訪れるようになりました。
ちなみに東方三博士とは、新約聖書に登場する人物で、イエスの誕生の時にやってきた人物のことです。
多くの巡礼者がやってきたことにより、ケルンの街は発展していきます。

1248年

1248年に火災により2代目の聖堂は焼失してしまいます。
そのため、改めて建築家ゲルハルトによる設計の元3代目となる大聖堂を建築することとしました。

1560年

ゲルハルトの死後も彼の図面をもとに建築が続けられ、既に内陣が完成していたものの、この年に宗教革命による財政難となり、工事が中断されてしまいました。
そのため、しばらくは大聖堂のファサードが1つしかない状態がしばらく続きました。

宗教革命とはルターが中心となって、当時免罪符を市民に売りつけて金儲けをするなど腐敗していたカトリックを批判し、現在のプロテスタント派を広める動きのことです。
ケルン大聖堂は現在はプロテスタントが多いドイツに存在していますが、当時はカトリックが大多数であったこともあり、元々カトリックの教会です。
そのため、宗教革命により国民の多数がプロテスタントに改宗した影響を受けて、献金などが減り財政難になったというわけです。

その後も教会としての役割は果たしていましたが、工事の再開と休止が繰り返されることとなり、大聖堂はいつまでも完成しませんでした。

1794年

フランス革命の最中にはナポレオン率いるフランス軍に占領されてしまい、倉庫として使われていました。
この際に多くの装飾品が略奪・破壊されたと言われています。
フランス革命は貴族による支配を終わらせるために始まった市民革命ですが、その後ナポレオン率いるフランス軍は周囲の国にも力が及ぶようになりました。
フランス革命当時は国家間の明確な国境はなく、ナポレオンによって多くの土地が占領されることとなりました。こうして、ケルン大聖堂のあった神聖ローマ帝国は解体され、その後フランスの影響を強く受けるようになります。

1842年

プロイセン政府の援助と市民の寄付をもとに約300年ぶりに本格的に建築が再開されました。
その理由として当時はゴシック建築の価値が見直され、かつフランスの影響を大きく受けていたことから、ナショナリズムと言われるプロイセンとしての民族思想も高まっていた時代だったためです。
また1814年にゲルハルトが書いた図面が見つかっていたことも理由にあげられます。
つまり自国民の尊厳や意識を高めるために、当時のプロイセンはケルン大聖堂を活用したということになります

1880年

ついに1880年当時世界最大の建築物として、632年もの時間をかけた大聖堂が完成します。
ゴシック建築の特徴としてステンドグラスがあげられますが、これは屋外の柱が屋根を支えることで天井の高さの高い設計が実現可能となっています。また、この天井の高さとステンドグラスからの光が「神は光なり」というキリスト教の世界観を表している建築様式となります。
この完成の前の1870年にはプロイセン=フランス戦争が行われ、フランスにプロイセンが勝利しドイツ帝国が誕生していたことからも、まさにケルン大聖堂はナショナリズムを高めるドイツ統一のシンボルとなりました。

1996年

ケルン大聖堂は世界文化遺産として登録されました。
ドイツは第二次世界大戦において敗戦国であり、ケルン大聖堂も当時の深刻な被害を受けていたものの、外観は保たれており、修復作業を経て世界遺産に登録されました。
登録の理由としてはその美しさはもちろん、東方三博士の遺物を納めて以降ヨーロッパのキリスト教文化に多大な影響を与えていたためと言われています。

2004年

世界危機遺産リストに入れられてしまいます。これは、当時ケルンの街が再開発の対象となり、100m以上の高層ビル建築の計画があったためケルン大聖堂を望む景観が損なわれてしまう危険性があったためです。このごビル建設の計画が見直されることにより、2006年には危機遺産リストから外れることとなりました。
危機遺産リストに入る世界遺産の多くは紛争や開発の影響でその価値を失う危険性のある途上国の遺産が登録されることが多く、ドイツのような先進国の遺産が入るケースは珍しいことでした。

まとめ

世界最大のゴシック建築のケルン大聖堂ですが、完成に600年以上の年月がかかり、完成後も一時は世界遺産から除名の危険性があったなどの歴史がありました。
是非訪れる際はそのような歴史も頭に入れて観光してみて下さい。

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